私と母のカリキュラム
小さい頃から、母と一緒に暮らしていた頃、私は母に、受け入れられていない、忌々しいような感情を常々、感じていたんですけど、どうして母はこんなに私のことを嫌いなのかな?私を認めないのかな?と長いこと、ずっと思っていたんです。
(もちろん、育ててもらった感謝はあります)
今回はなるべく主観をなくして、客観的に私と母のことを書いてみようと思います。
で、私と母はとても似ているんですよね。
多分、母も私と同じようにHSPですし、内向型ですし、自己肯定感が著しく低いです。他人軸で、人目を気にするところも私と母はそっくりです。
姉も神経質なところはありますが、私と母の方が断然、似ています。
私はずっと、自分が母から嫌われていると思っていたのですけど、もしかして母は私を嫌っているのではなくて、自分自身を嫌っているのではないかと気づいたのです。
私を認めないのではなくて、母は母自身のことを認めていないのではないかと気づいたのです。
それで、自分にそっくりな私が、まるで自分をみているように思えて、受け入れ難かったのではないかと。
母から見たら私は、母自身の嫌な所、ダメな所が全部遺伝して、凝縮されて、全て詰まった自分の分身、鏡のように見えていたのではないかと。
私と向き合うたびに、自分自身の見たくない所、嫌いな部分と向き合わされる感じがして、とても苦しくて嫌だったのではないかと、気づいたのです。
それで、去年の夏頃、思い切って電話で聞いたことがあるのです。
「ねぇ、お母さんが私のことを嫌いなのって、もしかして私がお母さんのダメな所を私が全部、受け継いでいるからなんじゃない?私を見ると自分のダメなところを見ているようで、それで嫌だったんじゃない?お母さんは本当は私ではなくて、自分のことが本当は嫌いなんじゃないの?」と。
ひどい娘ですかね。別に感情的に聞いたわけではなくて、普通に疑問のような感じで聞きました。
そうしたら母は
「ああ、確かにその通りかもしれない‥」
と本音を言ったのです。
それを聞いて、私は「ああ、やっぱり」と、とても腑に落ちた気持ちになりました。気がつくのが遅かったかもしれませんが。
スピリチュアル的に言うと、「子供を受け入れられないのは、自分が自分自身を受け入れていないから。まずは自分を受け入れることが先ですよ」ということを学ぶこと、自己受容が母の魂のカリキュラムなのではないかと思います。
そして、私自身も「母に受け入れられないこと、自分が自分自身を受け入れられないことを克服して、自分のありのままを認めること、受け入れること」が魂の学びなのだと思います。
言ってみれば、魂的には、私と母は「自己受容」を共に学ぶ同じ塾の生徒同士。年は母が少し早く生まれただけの、立場は同じ生徒同士。
親子だと思うと色々、ややこしく感じてしまいますが、二人とも家族という枠の同じ塾で、同じ課題を学ぶ、ただの生徒同士だと気づくと、ある意味、なんだそういうことだったのかという感じですよね。
お互い、似ているからどうしても同族嫌悪になってしまいますが。
でも、母はもう高齢なのでこの課題は、また多分、来世に持ち越しそうです。まあ、それも母の学びなのでしょう。
私はどうでしょう。
私に子供がいれば、また自分のダメな所(と、自分が思っている)が凝縮したコピーみたいな、鏡みたいな生きづらい子供が生まれて、自分の子供が受け入れられないということに悩みながらも、自分を受け入れることが先と気づいて、子供と共に自己受容の学びをする‥という母と同じカリキュラムが待っていたのだと思います。
パラレルワールドの一つに、確実にこの未来があったのだと思います。
ですけど、私はこの未来を選択しなかった。私は母と同じようになりたくなかった。もちろん、理由はそれだけではないですが。
このカリキュラムが良いとか悪いとかではありません。
ただ私は、小さい頃から散々、ずっとこのカリキュラムと向き合い続けて‥‥時には自殺未遂をしたり、自傷行為を繰り返したりしながら‥‥。
今度は子供と一緒に、過去と向き合いながら、自分と似た子供が対面するであろういじめ、不登校などの学校問題、HSP、心の病気などと向き合いながら、また振り出しに戻って、このカリキュラムをこなす‥‥。今度は子供がいて1人ではない分、負荷も2倍になるでしょう。1人でも耐えきれないくらいの負荷だったのに、2倍になったらと思うと、想像もつきません。自分にはこのカリキュラムを再びこなすキャパや気力が、もう残っていないだけなのです。若い頃に使い果たしたのです。
今、私は穏やかに、幸せに暮らしています。だけど、ここまで来るのに長かった‥‥。
(子供がいないので)私はまた別のところで、自己受容の学びをするのだと思います。現に今もしていますので、引き続きという感じですが。
なるべくこの自己受容の課題は今世で終わらせたいです。